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2024/04/20 16:40 |

ストーリー

かつては四国全円を攻め取った長會我部元親の世子長會我部盛親が主人公。父元親が天下取りへの夢を断ち切れぬまま、すなわち東西のどちらにも加担していないという状態のまま、関ヶ原を迎え、完全に時勢に乗り遅れた盛親関ヶ原に敗れ、土佐の大名から寺子屋の師匠という身にまで落ちぶれてしまう。このような悔い多き前半生に満足せず、盛親大阪の陣で自らの器量を存分に試そうとする。

感想

司馬遼太郎の本を読むといつも思うのですが、生きる目的というか、生まれてきた目的というか、なにかそういうものを教えられる気がします。この作品もそうです。
盛親元親が死んだため、土佐に帰って父親の葬儀などをしていて、その間に関ヶ原という天下分け目の戦いに乗り遅れました。そのため、自らの器量を試すことができず、後に激しく後悔します。そして、人として生まれてきたからには、なにか大きなことをしたいと思います。次の一節は、大阪夏の陣という明らかに敗北が決まっている戦いに出陣する前に盛親が話している場面のもので、その心情をよく示しています。

人間の一生が仕合せであったかどうかは、息をひきとるとき、自分の一生が納得できるかどうかでき 
まることだ。いままでの半生だけでは、盛親はなんのためにうまれてきたかは納得できぬ。死にきれまい。その納得できるものを、これからつくるだけのことだ


このような考えを聞かされると、盛親という人物に憧れてしまいますね。「納得のできることをしなければ安穏と生きていても意味がない、だから敗北とわかっているような戦いでも出陣して自分を思い切り表現しきってやろう、器量を試してみよう」という心意気は本当に尊敬できると思います。

私もせっかく生まれてきたので、できれば自分の器量のすべてを傾けて挑戦できるような何かをしてみたいですね。

それからタイトルに書いたように『夏草の賦』とこの『戦雲の夢』はつながりの深い作品です。『夏草の賦』はこれも司馬遼太郎の作品なのですが、こちらは盛親の父長會我部元親を描いた作品です。両方読むとより感慨が深くなると思うのでオススメです。
              

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2008/04/14 01:35 | Comments(2) | TrackBack() | 未選択

ストーリー

日露戦争旅順攻撃を担当し、分厚いベトン(コンクリート)で囲まれたマシンガンを備える大要塞に対して、文字通り「肉弾戦」を挑んだ乃木希典が主人公。なぜ軍事的能力に乏しかった乃木希典がそのような大要塞の攻略を命ぜられたのか、ということや、大正という時代において殉死することができたのはどういうわけなのかということが司馬遼太郎によって考察されています。 

感想

乃木希典という人はとにかく劇的な人生を送った人だと思いました。長州閥の巨魁と親類だった関係でいきなり陸軍少佐に命ぜられたこともそうですし、ドイツ留学後に見せた心境の変化や、殉死という死に方を選んだことなど、その劇的要素は枚挙にいとまがありません。乃木希典陽明学の徒だったということですが、やっぱり陽明学の系譜に連なる人はみんな劇的な人生を送ってますね。以前このブログで触れた『』の主人公である長岡藩河井継之助もそうですし、中学校の歴史の授業でも触れる江戸時代の下級行政官大塩平八郎もそうですし …
自分の平凡な人生と比べると、彼らの劇的な人生がうらやましい気もしますね。彼らのように非業の死を遂げるのは避けたいですが^^;

乃木希典が自分の人生に不遇感を抱いていたということは、意外というかなんというか面白いと思いました。彼は晩年に 

電車に乗っていると、すわろうとおもって、そのつもりで鵜の目鷹の目で座席をねらって入ってくる。ところがそういう者はすわれないで、ふらりと入ってきた者が席をとってしまう。これが世の中の運不運というものだ。

と語っていたそうですが、これはむしろ乃木希典自身にこそ当てはまることなのではないでしょうか。日露戦争では児玉源太郎の助力がなくてはニ〇三高地を陥落させることはできなかったはずなのに、乃木希典ばかりが水師営の会見で外国記者から注目されてますし、凱旋して天皇に戦争の報告をしたときも他の将軍よりも報告書が美文であり、さらには軍服が儀礼用ではなく戦時に着用していた薄汚れたものだったため、彼だけが戦って他の将軍は大した働きをしていないように見えたり( 乃木が最も日露戦争の司令官の中で働きが悪かったのにもかかわらず)、乃木希典という人は本当に恵まれていたと思います。「ふらりと入ってきた者」はまさに乃木希典自身でしょう。
そんな人が自分を不遇だと考えるなんて皮肉ですよね。そのように考えることも彼の人生の劇的さの一要素でもあるわけなのですが。
              


2008/04/06 22:46 | Comments(0) | TrackBack() | 未選択

ストーリー


この作品は、多くのドストエフスキー作品がそうであるように、非常に長大なものであるため、いつものような形式でストーリーを紹介するのは難しいです^^;そのため、私の言葉でストーリーを書くのは断念しました。しかし、背表紙裏の説明がこの作品をよく表していると思うので、抜粋しようと思います。
聖書に(ルカ福音書、第八章三二―三六節)、悪霊に憑かれた豚の群れが湖に飛び込んで溺死するという記述があるが、本書は、無神論的革命思想を悪霊に見たて、それに憑かれた人々とその破滅を、実在の事件をもとに描いたものである。」

感想


ひとくちにロシア文学といっても、ドストエフスキートルストイはかなり違うなぁと改めて思いました。今回読んだのが『悪霊』で、最近読んだトルストイの作品が『戦争と平和』だったので、余計そう思いやすいのかもしれません。どう違うのかというと、トルストイの作品は全体的に調和しています。例えば、『戦争と平和』などには、とてつもなくたくさんの人物が登場するんですが、しかし、やはり調和がとれているのです。しかし、ドストエフスキーの作品は(特にこの『悪霊』は)、いろんな人物がそれぞれ矛盾しあった思想をいたるところでぶちまけていて、調和などといったものは全く見られません。どちらがいいというわけではありませんが、このような作家たちを生みだしたロシアという国と、そのときの時代の流れはすごいと思います。
それと、やはり世界の文豪と言われるだけあって、ドストエフスキーは筆力がすごいと思いました。人物描写もそうですし、会話なんかもまるで目の前にその人がいるかのように感じられるほどです。なにより、破廉恥なものとか、卑劣なことを描くのが非常にうまく、ダイナミック(こういう言い方が適当であるかどうかはともかく)だと思います。特に、日本人にはああいう風には書けないだろうと思いますね。感服してしまいします・・・

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2008/03/31 16:09 | Comments(0) | TrackBack() | 未選択

ストーリー

 題名にあるように、この『幕末』は短編集です。司馬遼太郎長編も多いですが、短編もけっこう出してるんですよね。十二編入ってて、具体的には「桜田門外の変」、「奇妙なり八郎」、「花屋町の襲撃」、「猿ヶ辻の血闘」、「冷泉斬り」、「祇園囃子」、「土佐の夜雨」、「逃げの小五郎」、「死んでも死なぬ」、「彰義隊胸算用」、「浪華城焼打」、「最後の攘夷志士」が収録されています。ちなみに私のオススメは、清河八郎という攘夷志士が主人公の「奇妙なり八郎」です。

感想

 司馬遼太郎幕末ものと戦国ものが多いわけなんですが、これは書名が『幕末』であることからもわかるように幕末ものです。桂小五郎木戸孝允といったほうがわかりやすいでしょうか?)といった有名どころから、大庭恭平という無名の人物まで描かれていて、幕末という時代の雰囲気というか気分といったものがよくわかります。
 ところで、私がこの短編集で一番好きなのは、先に述べたように清河八郎という人物を扱ってる「奇妙なり八郎」です。幕末は見方によっては彼によってあのような動乱時代になったということもできます。九州などから志士を上洛させたのも清河八郎ですし、新撰組が結成されるきっかけを作った(つまり、彼が上洛させた志士たちを取り締まらせるきっかけを作った)のも清河八郎だったわけで、極端に言えば幕末京都に混乱を持ち込んだのは全て清河八郎ということもできるわけです。それが結果としてよいことだったかは別として、すごい人物ですよね。
 そんな清河八郎の人生は人をだますことの連続みたいな感があるのですが、彼の最期は人に裏切られることによって(しかもとても単純な罠にはめられて)突如訪れます。そのシーンを描いたあとに述べられる司馬遼太郎の感想が、清河八郎という人物を(ひては策士という型の人間を)よく表しています。抜粋すると、

 清河は素朴すぎるほどのわなにかかったことになる。策士だっただけにかえって油断した。
 おそらく彼自身が不審だったろう。ひとが自分をだますとは、夢にも思っていなかったにちがいない。

です。たくさんの人を騙して、幕末の混乱を一手に作り上げたと言っても過言ではない清河八郎が、騙されて死ぬというのは皮肉ですよね。

              

2008/03/26 22:40 | Comments(0) | TrackBack() | 未選択

ストーリー

舞台はの時代の中国。主人公の李徴は秀才で、官吏となる試験にも受かるが、志が大きく詩家として名をなすことを目指す。しかし、思うようにはいかず、ついに発狂して姿を消してしまう。その後、李徴人食い虎となって旧友袁さんの前に現れ、人食い虎になってしまった経緯などを話し再び姿を消す。

感想

初めて中島敦の作品を読みました。よく言われることなんですが、やはり中島敦は漢文的な素養が深いですね。文章もいわゆる美文ですし、こんな文章が書けるようになりたいなぁという感じです。
さて、私がなぜ中島敦の『山月記』を読む気になったかというと、こんな名言に魅かれたからです。
人生は何事をもなさぬにはあまりに長いが、何事かをなすにはあまりに短い
まさにその通りだと思います。この格言を読んで中島敦に興味を持ったわけです。
というわけですが、この『山月記』の感想を言わせてもらうとまぁまぁ面白かったかなという感じです。人間という存在の小ささみたいなものを感じましたね。 特に次の件がそんな感じ出てましたね。
「理由も分からずに押しつけられたものをおとなしく受け取って、理由も分からずに生きていくのが、我々生きもののさだめだ。」
なんか哀しいけどこれが現実ですよね。。
機会があれば『山月記』以外の中島敦作品を手にとってみたいと思います。

              

2008/03/21 23:43 | Comments(0) | TrackBack() | 未選択

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